昭和54年 3月15日 朝のご理解
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御理解第21節「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」


昨日、んー、午後の研修のちょうどその時間だったでしょうか。あの、佐賀からあの、電話が掛かって来た。初めて、えー、十三日会におかげを頂いて、もう大変感動したと。金光様の御信心が、こんなに素晴らしいものだとは知らなかった。もう大変感動して、御神米を頂いて帰って、お里のお母さんのところにそれを持って行って、もうこんな有り難いことはなかったと言うて、御神米を頂かしたと。

血圧が高くてもう動かれずに休んでおられるお母さんに、その御神米を差し上げたら、もう涙を流して喜ばれた。夕方、お母さんから電話が掛かって来た。「もうあの御神米を頂いたら、頭がスーッとしてから起きてみたくなって、こうやって起きて自分で電話をかけておる」と。もうこげな有り難い神様は無いと言うて、お母さんから電話が掛かって来た。

そしたら今朝方から、その兄から電話が掛かってまいりました。もう私の兄は、「神さんなんて。ちゅってから」と言う風に、神様なんて全然信じないという人だった。ところがあの、お母さんのそのー、言うなら回復振りというか、まあ晩は夕食を一緒に頂いて、起きてもう給仕をしておられるのを見てから、「これを見たら神様のあるとかないとか言われん。俺も神様を信ずる」と言うて電話が掛かった。あ、そう言うて休んだら、明くる日兄が、「こうこうなんとかと言うその持病があったのが、すっきりおかげを頂いた」というて電話が掛かって来たという電話がございました。

これも昨日、ちょうど研修が終わって御祈念に入ろうとしておる時に、福山から電話が掛かって来た。主人が交通事故を起こしておって、その問題が大変こじれてまあ困った、大変難儀なことになっておる。今年はちょうど未年で、24になられるらしいですね。そのー、厄年でございますからね、「この厄払いをして頂きたいと思う」とこういう電話であった。

それで、あたくしはこっちから「厄払いどんしなさんな。おかげ頂かれんよ」とあたくしが言いましたら、それこそあの、鳩が豆鉄砲くろうたというような、これ見らにゃわからんですけどね、ポカーンとするとですから。ところが、そんな感じでした、「はあ?」って言うたきりでした。「ほなんならおかげ頂くようにどうぞお願いします」と言うわけでございます、ね。

例えば、厄払いといったようなことでも、最近の言うならば、あー、御用、そのー、まあ易学というとか、ああいうようなものから言うたらやはり一つの、んー、迷信とばかりは言えないようなものがありましょうけれども、金光教祖の打ち立てられたお道と言うものは、そういうものを、ね、迷信とせずに、そういうことはない、神様のおかげを頂けば、ね、例えそれが因縁であろうが迷信であろうが、ね、それが、あー、罪汚れであろうが、金光教の信心、教祖様が頂かれた神様にお願いをする、実意を持って願うならば、おかげになる、そんなことはない、もうないも同じだと説かれたわけです。

ね、ということをだからお道の信心さして頂く者は信じておる。あたくしもそれを信じておるから、ね、はれ、あんたがその今難儀な問題をおかげ頂こうと思うておるけれども、そう言うことをするとおかげにならんよと。払い出しなさんなと。あたしはその「払い出しなさんな」ちゅうとを、それがこっちの言葉で言うたけんまあビックリさしゃったつかもしれんけれども、そんな感じでした。「ならどうぞおかげ頂きますように」とこういうことでした。

まあ、ここで言うなら御祈念に入ろうと思うておる先生方が、皆あたしがそれを聞いてから笑い出すぐらいじゃけんよっぽど、あのなんかその、調子が良かったんでしょう。払い出しなさんなっちあたくしが言いいましたもんですからね。んー、ね、信ずるところからです、おかげ頂くんですね。信なければ世界は闇というのは、そういう信だと思うんです。

だから他の神様やら仏様やらを信じておったんでは、言うならば光にはならんということが分かります。信というのはね、この世の中にはもう神愛だけしかないんだと、合楽ではそう言っておるわけです、ね。ね、それでも信ずるということが、自分の心の光にもなる、家庭の光にもなり、周辺を照らすところの光にもなるというのはそういう信だと、ね。
だから金光教によりその信がでける、いや、合楽の信心により現代ではです、合楽の信心によりその信が頂けた時に、それが、ね、闇に、闇のような様々な難儀を闇と言うならばです、ね、それは光が灯ることになるのです。⑧●合楽理念を持ってしたら、もう絶対家庭に不和の起こるはずがない。

言うなら貧争病の、などの難儀が、なくなるほどしのおかげ。そこであたくしどもが、例えば貧があり争があり病があるとするならばです。はあ、これは合楽理念に基づいていない、合楽理念の言うならば行者としての信が足りなかったと、もうそこに焦点を置いていく以外ないほどしの素晴らしいことなんです。●

昨日研修前に、この頃新聞が読めませんから読んでもらいました。お道の新聞の論説談です。ほう、こんなに素晴らしいことを分かった先生方があるんだなと、あたくしは思うて感心したんですけれども、だからそれをそういうふうに信あの、感じておられる人がもし合楽の信心の全てを聞かれたり、伝家されたりしたら素晴らしいことになるだろうねと言うて話したことでしたけれども、教祖の神様という方は、ね、えー、今まであった宗教、ね、の価値観が変わるほどしのことを教えられたとあります、ね。

罪とか因縁とか、ね、または日柄の方位のと言っておるような、もし宗教があるとするならね、そういう価値というものがなくなってしまうほどしのものが、教祖金光大神の信心だと言ってるんです。今日はあたくしが皆さんに言っておることがそれなんです、ね。十三日から、会からこっちずっと、えー、お話をしてまいりました。

ね、士農工商、言うなら総人類、ね、その総人類が、ね、助かって行く手立て、ね。神様の願いが、いよいよ地上に成るということ、ね。それは十三日会の精神をあたくしどもが体得するマスターする以外にはないんだ。ね、十三日会が発会したということは、ね、合楽教会がでけたのは、その十三日会がでけることのために合楽教会が誕生したんだと。

ならその十三日会とは、神の願いが成就することの為。ね、今までかつて言うたことも聞いたこともなかった前代未聞のことが、十三、合楽理念によって説き明かされようとしておる、ね。その例えば一部分でもあたくしどもの信心生活の上に現して行くならば、ね、これが光にならないはずはない、おかげにならないはずはない。という言うならば合楽理念を、が昨日この論説を書かれた先生のような偉い方がです、ね、合楽のあり方をもうこれこそ教祖金光大神の信心の神髄だと、ね。

言うならばかく一切の宗教、そういうものがです、ね、価値観を失うほどしのことを教祖は仰っておられるんだと。今、合楽では今の金光教を始め、ね、あらゆる宗教がもう逆さまのことばかりを言ってきておるんだと。金光教もそういう信心を頂きながら、ね、言わば他の宗教、キリスト教や仏教じゃ分からんようなことを言わば、になってきつつある、ね。

ね、もうなってきたと言うても良いかもしれん。それを、言わば逆さにしなければいけない、ね。⑦●左手は悪魔の手だとか、ね、忌み汚れたりだとかと言っておったその左手によって、完璧な助かりが頂けれるんだと説いておるのが合楽なんです。ね、だからもう十三日という言うなら悪日を神愛の日、一切、一番最高に有難い日だと言っておる、逆さまのことでしょう。

だから、それが言えて分かってそれを行じられれるようになった時に、初めて言うならば世、社会に光が灯すことのでけれるほどしの力が発揮される、ね、おかげが頂けれる。まずは自分の心の中に家庭の中に、自分の周辺にそういう事実を言うならば実験して、実証していかなければならないということが分かるです。●

ね、わが心が神に向こうと言うのは、今まで言うてきた神様じゃつまらん。今、合楽で言われておる神様でなからなければ、ね、いかに向かったってそれは、ね、反対の方に逆行しておるようなことだからだめだと。合楽で言われておる神様、その神様に心が向かった時に、そして今あたくしが申しましたようなことが、信じれて行じれて現せれるおかげを頂いた時に初めて、ね、世界に光を灯すことがでけるというほどしのことを、今合楽では言っておるわけですから。

ならあたくしどもの上に様々な難儀がないじゃありません、ね。言うならばあたくしどもの世界から貧争病を除くというのは、大変なことでしょうけれども、ね、いわゆる真善美に輝くということは、ね、「しん」とは真、善とは悪の反対、ね、美とは、ね、醜の反対、美とは麗しい美しいもの。

そういう世界に住めれるほどしの信心を、今合楽では日参、聴教、信行、家業の行、ね、合楽理念をいよいよ行の上に、生活の上に現して行く生き方を持ってするならば、日まさり月まさり年まさりのおかげが頂けないはずはない。そして、そういう真を、ね、現していくところの言うなら合楽示現活動に参画するということである、ね。

または、身を削り心を削って真を現して行くならば、それが必ず子孫に言うなら代まさりのおかげにも頂けれると、合楽では説いておるわけですから、ね、それをいよいよ銘々のものにしていって初めて、わが心が神に向かうという最後の、ね、信心なければ世界が闇なりと言われる、だから今まで、過去価値観を失ってしまった宗教、神様仏様ではダメであったことが何千年のことで実証されたわけなんだ、ね。

そこで金光教により、今合楽で言われておる信心が、ね、皆に普及すると言うか、ね、示現がでけた時に、そこにはいわゆる神様の不思議な働きがあら、示現とは神仏の不思議な働きを現すことだと字引きにあるそうですが、ね、そういう働きが起こってくるほどしのことを、今合楽では言われておるわけです、ね。

合楽の信心がもっともっと言うならこう広がってまいりましたらね、言うならばあらゆる宗教宗派というものは、どんなに素晴らしいことを言うておっても、それが残っておっても、それは価値を失うほどのものであるということを、まずは信じなければならない。だから合楽理念を頂いておるということは、そんなにも尊いんだということを、一つもっと有難く思わなければいけない。

そして、今佐賀と福山から電話が掛かって来たその話を、もういっぺん思うてみて下さると良いですね。どうぞ。